テレビュー社(米)の歴史

その1

その2

その3

その4

その5

その6

テレビュー製品年表

テレビューについて
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Translated by Yasuhiko Tsukuda

TeleVue と Al Naglerの名は、1977年以来の革新的な望遠鏡やアイピースの設計、及び野鳥観察や広視界観察、天文活動などに用いられる口径70mmから140mmのアプラナートかつアポクロマートな初の本格的短焦点フォトビジュアル望遠鏡の商品化とともに、国際的な天文コミュニティや、野鳥観察コミュニティの中でも徐々に、同じ意味を持つ言葉として知られるようになってきている。

アルバート・ナグラー(1935生)はニューヨークのブロンクスで生まれ育った。子供のころ、彼の天文への関心は、1948年に彼の父に連れられて出かけたハイデン・プラネタリウム(そこでは、名なカール・ツァイス・イエナのプラネタリウムが移り変わる夜空をデモンストレーションしていた)訪問によって醒ざめた。その後彼はさらにそれらに興味を深め、口径3.5インチの「Skyscope」ニュートニアン望遠鏡を手に入れるに至った。この30ドルの器具は、ミラーを支える厚紙でできた鏡筒と、パイプ・接続部品でできた脚からできていた。10代前半のころ(1949-50)ナグラーは、ハイデン・プラネタリウムにある「ジュニア天文クラブ」に入会した。天文クラブへの参加は、天文への興味を開拓し発展させようとしている人達に対して、カンパニー・セブン(Company Seven)が今日に至るまでずっと推奨してきているコースであるが、宇宙飛行が実現する前のその頃は多くのことがまだまだイマジネーションとして沢山残っていたし、賢い子供達は、宇宙の遙か彼方へ行けるだろうあるいはそうなるだろうと考えていた。

ナグラーはブロンクス科学ハイスクールに入学した。そこには、チャールズ・キャファレラのガイダンスやアシスタンスによる「科学技術研究所」があり、アマチュアによる望遠鏡製作の雑誌や書籍に掲載されたダイアグラムや記事などがあった。アルはそこで、350lbs、口径8インチ、f6.5のニュ−トニアンを木製六角形断面の鏡筒と鋳鉄パイプ・接続部品で製作した。それは数年を経て徐々にリファインされていくことになる。望遠鏡の反射鏡は、ブロンクス163番街にある「The Precision Optics」という会社からキットで販売されていた鏡材を元に研磨された。The Precision Optics社は実際に一人の検眼士によって運営されている会社であったが、その頃はアマチュア用の望遠鏡製作部品類を供給するサプライヤーがほとんど無い頃だった。また、例えそれが見つかったとしても、パートタイムや付随的運営でしかないものだった。そんな中、1952年のハイスクール卒業の頃に完成させたナグラーの望遠鏡は実に良く出来たものとみなされ、ナグラーには「Shop Award賞」として1インチ「Starrett」精密マイクロメーターが授与された。

1955年にナグラーは、米国内雑誌「Mechanix Illustrated」に彼の8インチ望遠鏡の設計と構造に関する記事を投稿した。ナグラーの記憶では、その時に著作料として受け取った80ドルが彼の望遠鏡や天文に関係する最初の収入だった。1955年「Mechanix Illustrated」誌に彼が書いた記事は、その後「 Farrand Optical Company」に勤務することで始まる彼の光学技師としてのキャリア追求に、ナグラー自身に自信と信用を与えるものとなった。

ナグラーが、年に一度のアマチュア望遠鏡製作者コンベンションや、ラッセル・ポーターによって始められ現在でもスプリングフィールドの望遠鏡メーカー等のスポンサーによって継続されているスター・ウォッチング・イベントに初めて参加したのは1954か1955年あたりの頃だった。そのイベントは「Stellafane(ステラフェイン)」として知られており、バーモントにあるスプリングフィールドで開催されている。決して毎年開催されていた訳ではないにもかかわらず、そのコンベンションの歴史は1926年にまで遡る。この例年のイベントには天文学や望遠鏡製作への関心を共有する数多くの人々が一堂に会し、そこでは、講演会、望遠鏡やアクセサリー類の展示、物々交換店、望遠鏡製作分野での業績に対する受賞などが催される。第二次大戦以前、ポーターは著名なパロマー山の200インチ「ヘール」望遠鏡の技師として働くためカリフォルニアに移り住んだ。バートン・ウィラ−ド、彼は最近ラッセル・ポーターについての伝記を執筆したアマチュア望遠鏡製作者なのだが、自作した望遠鏡でアル・ナグラーが第3位を、バートンが第1位を受賞することになった1958年の「Stellafane」に参加していた。ウィラードもナグラー同様、このアマチュア望遠鏡製作者(ATM)の登竜門となるイベントにその後も参加し続けている。

ナグラーがハイスクール時代に製作した8インチ望遠鏡は、その後結局、350lbs、口径12インチ、f5.2のシステムにまで進化することになるが、1972年、アル・ナグラーはこの望遠鏡を「Stellafane」に持ち込み、ニュートニアン望遠鏡の革新部門で第1位を獲得した。この望遠鏡の特徴の中には、2次鏡に穴を開けることで口径5インチ分の光を有効に透過させ、その周りの部分で10インチ分を賄う、というというものであった。また、負の(バローとも呼ぶが)レンズが2次鏡の後方に配置され、それによって鏡筒側面のガイディング・ポートまでの(バックフォーカスの長い位置まで)光を送るという構造を採っていた。これによってナグラーは、一つのポートでガイドを行い、同時に主焦点で撮影する(イメージを得る)ということができた。つまり、ミラーシフトや鏡筒の変形といった問題から完全にフリーになることができた訳である。結果、正確にガイドされた天体写真を得ることができた。ナグラーはこの望遠鏡の他に、35mmフィルムで80分という長時間露光を行い、3秒角を拡大して16秒x20秒角にまで解像度を上げた天体イメージの幾つかを今でも保有している。これらは全て、今日の比較的プリミティブなモノクロフィルム、コダック「プラス・パン」で撮影されたものである。

アール・ブラウンは Farrand Optical社のチーフ・プロジェクト・エンジニアだった。また彼は同時にアマチュア望遠鏡製作者でもあった。ブラウンは、オリジナル「Amateur Telescope Maker」誌に記事を執筆していたし、雑誌「Sky and Telescope」(アーサー・コックス以前に良いものだった)の中では「アマチュア望遠鏡製作者のための集録」コーナーを任されていた。アル・ナグラーが Farrand社についてを知ったのはブラウンからであったし、その後1957年から1973年までの間、同社での仕事に魅了させられることになったのである。クレア・ファランドが彼の名を冠して同社を設立したが、当時その施設はニューヨークのブロンクスにあった。2つの建物の複合体の中には大きなガレージがあり、もう一方の建物は、のちに地域の病院の看護婦マンションとなる大きな産業ビルであった(その頃には会社はニューヨークのウィンチェスター・カウンティに移設されていた)。ファランドの名声の一つには、彼が円錐式スピーカーの発明者であることが挙げられる。彼の会社はのちに光学及び製造分野にも関わるようになったが、第二次大戦中、 Farrand Optical社は、軍の複雑な爆撃照準器も製造していた。

「そもそもは自分の設計したアイピースのテスト用として開発を思い立ったのですが、屈折望遠鏡を開発することに興味をもつのにさほど時間はかかりませんでした。その後、口径8インチのものを自分用として所有することになりました。f10.4で、8フィート長の木製チューブでできた4枚玉折り畳み式のそれは、友人達から「蛇の棺桶」と呼ばれていました。多くのアマチュア天文ファンがそうであるように、私にも変わった経験があります。ある時私は、自分の最初の車である「格子縞」のキャブに木製六角形チューブで作られた8インチのニュートニアンを積んで天文観測仲間達に会いに向かっている道すがら、棺桶を不法に運搬しているとして警察官によって逮捕されかけたことがあります。またある時、友人達との観察会を終えて家に向かう道すがら、私の車である格子縞のキャブからコンロッドを田舎道に落としてしまいまいました。私は古いブラウンのモヘアのコートを着て、田舎道の路肩に沿って背を曲げながらその凍った不格好な固まりを探しに出かけたのですが、その時、パトカーがギャーっと音をたてて停止しました。サーチライトを持った警察官が下りてきて私に語ったことによれば、最初そんな私の姿を見た時、彼は私のことを迷える熊だと思って銃で撃とうとしたのだそうで、なんて幸運だったかということでした。こうした思い出も、アマチュアの天文活動から生まれ、その満足感に繋がる宝物のような秘蔵話なのです。」と、ナグラーは昔を思い出して語った。

Farrand社の主任光学技師であり、ブロンクス科学ハイスクールの卒業生でもあるマーチン・シェンカーの下で勤務していた時、ナグラーはトロニエール博士らの人々に紹介された。「Super-Farron」と呼ばれるf0.87のレンズを設計したのがトロニエール博士であったのだが、 博士が以前ドイツの「Schneider」社に勤務し、第二次大戦の頃には数多くの観察双眼鏡や照準に採用された超広角(見かけ視界90度の)アイピースの開発に携わっていたことについて、アルはその時まだ知らなかった。これらの人々との出会いや交際によって知識は少しずつ集められていったわけだが、それ以降のアル・ナグラーの業績については失われることはないだろう。アル・ナグラーはその後 Farrand社の SeniorOptical Designerとなり、NASAアポロ計画の月面着陸船ビジュアル・シミュレータの設計の仕事を含むタスクに携わることになった。

このシミュレータは、像を無限遠位置に投影する110度の見かけ視界を有しており、天球の星野、地球軌道、それにランデブーや月面着陸の様子をあたかも現実のようにシミュレートするものであった。ナグラーはこのシミュレータの中で用いられた光学プローブを設計したが、それは140度に及ぶ見かけ視界を提供するものだった。これらには、彼が数年来その考えを展開させてきた光学上のアイデアを採用した。そしてこれは、1979年までに「Nagler」として知られることになるアイピースの開発と試作に繋がる結果となった。その後「KeystoneCamera」社の主任光学技師としての仕事に従事していた頃、ナグラーは自身の経歴に新たな方向をセットすることを決心した。

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